‐ 病気平癒 開運招福     ‐ 叡智と誠意

合格おめでとう! どうか、ひとの機微に触れることを厭うようなお医者さんになってください。

最首悟先生を思う

生物は、子どもを残すために生きている。ならば、子どもを残せなかった者は何の意味もなかったということだろうか。そうではない、万物の連関によって誕生した生物は、日々、お互いを認識し合ったり、何かを共有することで歩き続けてきた。つまり、経済的合理性とは、和合するという生物として背負い続けなければならない宿命から逃れようとする者たちの欺瞞である。生物は、遺伝子(個性)の多様性や種の多様性を求めることで、およそ38億年もの長い間を歩き続けることができた。生物では、これを進化という。わたしたちには、生まれながらにして、様々な生命あるものがお互いの存在を尊重し合えるような環境づくりを課せられている。求めるべきは、生態系の多様性である。

2022/03/25

起きました。椅子に座ったまま何もしていませんが…  このような時間を過ごしていると、外呼吸が自動性であることを改めて認識させられます。昨日の午前中に投稿したアメリカ疾病予防管理センター(CDC)による研究の最新報告についてですが、DMで質問が届きました。「結局のところ、この結果をどのように理解すればよいのでしょうか」というものでした。すでに4回目の接種が行われていたイスラエルの状況を見れば、感染予防という意味においてオミクロン株への新型コロナワクチンによる有効性に限界があることは確かです。つまり、新型コロナ対応としてワクチン戦略に依存するだけでは終息は難しい。誤解があってはならないので敷衍すると、“多くの人がワクチンを接種すればコロナ以前の日常が戻ってくると考えてはいけません”ということです。新しい生活様式(手指などのアルコール消毒、マスクの着用、換気の徹底など)を続けたり、ワクチン接種によって重症化や死亡するリスクを下げたり、発熱やのどの痛みなどなにか症状が現れた人に検査を行ってお薬を処方することが大事なのは、これまでと変わらないと…  (医療がひっ迫したり崩壊するなど、保健行政について課題が浮き彫りになった自治体もありましたが…)  ヒトの免疫システムには自然免疫と獲得免疫があって、獲得免疫は、体液性免疫(抗体による免疫、感染予防)と細胞性免疫(細胞傷害性細胞による免疫、重症化や死亡するリスクを下げる)からなります。今回のCDCによる報告は、イスラエルでも示されていた後者の有効性を改めて裏づけるものでした。医療、とりわけ感染症では、現状での最善手を選択することが求められます。また、厄介なことに、感染症を引き起こすウイルスには、コロナのように変異を続けるものがあります。わたしたちの社会は、コロナによって、個人と全体の調和について試されているのです。一人一人に、専門的な視点による読み解き(専門家による解説)を正しく理解して自分のものにする力が求められています。

大学入試生物詳解 総合版(生物基礎・生物)

『大学入試生物詳解 総合版(生物基礎・生物)』
生物用語を確実に覚えるには、土台となる理論を理解することが必要である。そして、その努力は解答力を向上させる。これは、教科書や図録を参照しながら読むことで実力を上昇させることのできる大学入試生物の解説文集である。 大学入試生物について丁寧かつ詳しく作られたストーリー性のある解説文を読むことで、本物の実力(柔軟な応用力と正確な表現力)を身につけることができる。このことは、受験だけでなくあなたの人生における人間形成にも大きな好結果を招くことだろう。 : https://note.mu/ryochan5963/m/m87bd78e8047d

ご挨拶

◇◇◇ ご挨拶 ◇◇◇
前身の医進アカデミー時代から指導にあたってきましたKinyobi医進を離れることになりました。これからも、がん闘病中の母を支えながら医学の道を志す受験生の指導に精進してまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。最後になりましたが、学校法人近畿予備校関係者の皆さま方に感謝を申し上げます。お世話になりました。  平成31年1月29日  生物科・小論文科  三浦 りょう

読売テレビ かんさい情報ネットten.

読売テレビのかんさい情報ネットten.を視聴。いつもの水曜と変わりなく、若一光司がコメントしている。受け止めるべきを受け止め、関係性を続けていく。どのような謝罪コメントよりも、意味があるのではないだろうか。組織として信頼を失わない態度であり、組織としてあるべき姿を提示することにもなるからだ。期せずして、いまの日本に足らないものについて問題提起することになった。

大学受験生物に王道なし

ほんまもんの(真の)生物科の先生であれば、誰もが授業不要論を否定するはず。テーマ解説を受けないで教科書や図表とにらめっこしたり、問題集をやり込んだところで、実力がつかないからだ。まず、“(赤本や青本などで)過去問と向き合ったときに、頷きながらその入試問題がもつ本質が吸収できるようになって、初めて戦うことができる科目”だということを理解することが大事だと言える。教科書傍用問題集や配付されたテキストを演習するだけという指導者など論外である。

生物学習法

先ずは、各テーマに通底するストーリーの存在に意識を払いながら、各項目における要点を整理することで用語の知識化に努める。つぎに、受験生物で必要とされる思考力や考察力の獲得をめざして、実戦に近い問題に取り組む。

生き方のテクネーや魂の置きどころ

「目でみることが出来ないだけで、世の中のすべての命あるものは呼吸しつづけている。そして、五感もまた働きつづけている。せっかく働いているのだから、きちっと入ってきた情報を処理して、世の中を認識する意識をもつことが大事だと思う」 学生時代の恩師から授けられたとも言うべき言葉である。“心で感じ、頭で考えることを意識して生きていきなさい”とわたしが教え子に話をする原点。生き方のテクネーや魂の置きどころを獲得する方法。

競走馬の毛色を決める遺伝子

競走馬の毛色を決定する対立遺伝子の一つに、鹿毛遺伝子(B)と栗毛遺伝子(b)がある。BBの組み合わせをもつ馬をホモ鹿毛、Bbの組み合わせをもつ馬をヘテロ鹿毛という。つまり、栗毛(bb)が生まれるのは、ヘテロ鹿毛(Bb)×ヘテロ鹿毛(Bb)、ヘテロ鹿毛(Bb)×栗毛(bb)、栗毛(bb)×栗毛(bb)の場合となる。また、鹿毛には黒鹿毛や青鹿毛がいるが、これは色素細胞の細胞膜上に存在する色素細胞刺激ホルモン受容体の種類によって、合成される色素やその合成量が違うことによる。

みぞれまじり

今日は、母の義眼を作り直すために京都丸太町まで。作り直した義眼を装着してしばらく様子をみる必要があるため、パレスサイドホテルでランチしてから今出川に向かう。“この予備校で4年間指導にあたって来たんだよ”と話しながら見上げた近畿予備校烏丸ビル。空から降り出した雪が、突然みぞれまじりに。[2019/02/16]

合格したキミに

わたしが考える“大学に合格したときに読んでおいてほしい本”は、J=メイナード=スミスの『生物学のすすめ』です。進歩が続く医学を医療の発展につなぐために知っておきたいテーマが解説されています。それから、高校生物で学習したことを進化させるための2冊を紹介します。物理選択者なら武村政春の『ベーシック生物学』を、生物選択者なら集英社の『kotoba コトバ(2014年夏号)』〜生命とは何だろう? をオススメします。生物とはタンパク質の存在様式であり、ノリとハサミの役割を担うものが酵素。そして、それらの設計図である遺伝子はDNA上に存在するのです。

大学生が一気飲みのあと死亡

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190204/k10011802891000.html アルコールは肝臓で分解されてアセトアルデヒドになる。アセトアルデヒドは中枢神経に対して毒性作用をもつ。だから、酔ってしばらくしたときに、動悸や吐き気、あるいは頭痛を起こす人がいるのだ。中枢神経は、当然、生命の維持にも関係しているから、死ぬこともある。

マルクスと小林秀雄

入試とは関係ないが、これからはマルクスと小林秀雄だと思っている。いくつもの神による暗喩に立ち向かうために、ノアの方舟的国民国家の形成が必要であると考えているからだ。

受験生の皆さんに

安らぎよりも意味があるものが、必ずどこかにある。いまガンバっていることに意味があるのかどうかは誰にもわからない。ガンバっていれば必ずいいことがあるだなんて誰にも言えない。それでも、キミが人生を終えるときに、自分のことが好きでいられるように。ただ、それだけをわたしは願う。

ステロイドとは

https://dot.asahi.com/amp/wa/2019012100008.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=social&__twitter_impression=true この大塚先生の解説いいね! 脂質(ステロイド)ホルモンには生殖腺ホルモンや副腎皮質ホルモンがあること。そして、そのレセプター(受容体)は細胞質中にあること。これは、大学入試にも出題される話だから。でも、糖化が促進されたとき炎症反応について抑制させるのは何故だろう。脂質(ステロイド)ホルモンである糖質コルチコイドを取り込んだ細胞は、タンパク質を糖化( = 脱アミノ基によって糖に変換すること)するようになる。その結果、血糖値が上昇する。 きっと、そのときに血管から組織液がしみ出るようなことがあれば、糖化の速度が抑えられてしまうからではないだろうか。

生物選択者心得

― 生物選択者心得 ―
生物科予備校講師であれば、まず、受講生のレベルをある程度のところまで引き上げるのが一つの責任となる。旧帝大レベルまで引き上げるには、時間的制約を受ける授業だけでは難しい。生物科で高得点を目指すのであれば、自分で勉強する必要があるのだ。 生物科は、どうしても講義が中心になる。また、情報量多めの広い解説になるため、受講生は、効率よくメモをとる必要がある。さらに、多めの板書をノートに写す作業にも追われることになる。それでいて、すこしでも聞き漏らしてしまうと、復習が上手くいかなくなる。 講義を受けてから、該当する箇所について教科書と参考書を精読する。まずは、それをくり返す。そして、直前期で一気に過去問を演習していく。これが、生物科で合格点をとるためのセオリーである。

むずむず脚症候群

【むずむず脚症候群】むずむず脚症候群(Restless Legs Syndrome:RLS)とは、発疹など皮膚の炎症によるかゆみではなく、神経における異常で不快な感覚が生じる疾患をいう。症状が起きたとき、脚を叩いたり、寝返りをくり返すことなどで不快感を軽くしようと患者が行うといった特徴がある。また、症状が夕方から夜間に現れることが多いため、睡眠(とくに入眠)障害の原因となり、その結果、かなり強い眠気を引き起こし、QOL(生活の質)が著しく低下するという問題がある。この症状は、妊娠中の女性の約2割に見られるという。しかし、ほとんどの人は、授乳期間が終わるまでには自然に解消する。原因としては、次の4つが考えられている。①神経伝達物質であるドーパミンの機能低下 ②中枢神経における鉄分の不足による代謝の異常 ③脊髄や末梢神経の異常 ④遺伝的な要素などである。なかでも、脳内で鉄分が欠乏したため、神経細胞でドーパミンが十分に合成できずに起きるケースが多いと考えられている。脳や脊髄といった中枢にある神経で情報の受け渡しを行うために必要なドーパミンという神経伝達物質は、鉄分が不足すると合成量が減るため、情報を正しく伝えることができなくなってしまう。そのため、末梢からの脳への情報が誤って伝えられ、身体に異常があるかのようにムズムズと感じるということである。ガンの疼痛の管理に使われる麻薬性鎮痛薬などのオピオイド(脳や脊髄に作用する薬)によっても症状が起きるのは、そのためである。症状が軽度であれば、①エナジードリンク・アルコール・コーヒー・タバコをやめる ②ぬる目のお風呂に入る ③就寝前にストレッチ体操をする ④足裏マッサージをする ⑤規則的な就寝を心がける ⑥健康的な食事と適切な運動などで改善できる。また、症状が改善されない場合は、ドーパミン受容体作用薬を使って治療することができる。

小論文試験対策について

「これだと小学生の作文だわ」「Fランク大学の小論文の合格答案」「たぶんこれを読まされた慶応の先生は、うわぁーこいつ頭悪いなーと思うと思うよ」ということを、あまりオブラートに包まずにそのまま言いましたアワー…(´・{}・`)

このアワビ先生の受講生に対するお叱りはとても潔い。あとは、食らいついて頑張る子が、どれだけ存在するのかということ。私は、入試現代文で骨っぽい記述問題が激減したことと、小論文の指導をする際にイマドキの彼らを信じきれなくなったことから、生物科に軸足を移すことに┐(´`)┌ヤレヤレ

タミフルとゾフルーザ

新薬には、まだわかっていない副作用が存在する可能性がある。インフルエンザ治療薬であるタミフルは、細胞に感染することで増殖したインフルエンザウイルスが、別の細胞に侵入するのを抑える薬で、一方、新薬であるゾフルーザは、インフルエンザウイルスが細胞に侵入したときに増殖を抑える薬である。ゾフルーザは体内にとどまる時間が長いため、カラダが小さい子どもにとっては副作用によるダメージが大きいと考えられている。家庭内での感染を防ぐことを考えれば、大人にはゾフルーザ、子どもや高齢者にはタミフルが望ましいと言える。また、ゾフルーザは、その効き方から、可能な限り早目に服用することが必要である。
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2019 センター試験 生物

2019 センター試験 生物

今年のセンター生物。難化すると読んでいただけに拍子抜けしたのは確かである。わたしは、これまでに試行されてきた大学入学共通テスト(俗に言う新テスト)の問題に近いカタチのものが出題されると考えていたのだ。今回は、高校生物の各テーマについてどれぐらい理解していてほしいと大学入試センターが考えているのかがキチッと示されていた。今後は、その示された《理解していてほしい度合い》を参考にして授業を行うことが、予備校はもちろんのこと、学校にも求められることになる。ただ、教科書を難関国公立大2次試験や有名私立大入試で見られるような思考力が問われる問題に取り組むための、説明文と図や表など資料からの情報をつかって問題を解く方法(課題を解決するための考え方)を含んだものに変えていくべきなのは確かである。今の高1生から始まる新テストが、それほど大きな変更であることを忘れてはならない。

【難易度:易化】

“怒鳴る教育”など存在し得ない

はじめに言葉ありき、言葉は常に神とあり、言葉は神なりき。まわりと丁寧に向き合えない子と対峙する大人には、指導するにあたって論理や技術が求められる。また、相手が聴きいれるだけの美しい言葉やあたたかい声でなくては意味がない。学校や教員たちは、そこに無自覚過ぎる。

センター現代文講評

センター国語(現代文)

第1問の評論。いたってシンプルな設問と選択肢だった。受験生諸君にとって読みやすい文章でもあった。第2問の小説。物語のように感情移入がしにくい文章だったが、場面転換がはっきりしているため傍線部に関係するところを確定させやすかった。第1問についてのわたしの感想は、“各国の共通語の語法には、その国民の規範が含まれているから、会話力だけを高めるだけでは真に相手を理解することが出来ない”といった受験生に《最低限》の理解を求めたいテーマを示すような文章で問題を作ってほしかった。そして、第2問については、小説はメタファー(隠喩)を読み解くことによって個人や集団の思想を向上させるために存在するはずで、相似(∽)の証明を求めるような設問であってほしかった。来年で、センター試験は最後となるが、今回は、大学入試センターが必要だと考える《最小限》の学力を求める試験になっていた。原点回帰という言い方もできるが、中学高校受験への《子どもがえり》とも言える。

【センター現代文:易化】

それでも、わたしは手を差し伸べる

教護施設をご存知だろうか。いまは、児童自立支援施設と呼ぶそうだが。社会適応できない18歳未満の子どもたちが暮らす教育施設である。つまり、不良行為が見られた子どもが更生するための施設だ。ライター時代に、施設内の子どもたちから話を聞かせてもらったことがあるのだが、毎週土曜の夜になると、そのことが思い出されるのだ。それは、東海テレビ制作のドラマ『さくらの親子丼』を見てしまうからである。親や学校教員からの心無い言葉から転落を続けてしまった子どもの存在を、もっとわたしたちは知るべきではないだろうか。転落しそうな子や転落によって傷ついてしまった子に、“それでも、わたしは手を差し伸べる”と言い切ることができる大人になるために。

高知での日々

高知県は、大河ドラマ『龍馬伝』が放送されるまでは、観光収入もぼちぼちな垢抜けない県であった。しかも、全国放送の番組が少なかったため、女子高校生の方言ですら、当時はまだ若かったわたしが聞き取れなかったほどだ。そういう意味ではツイていたのだろう。大卒で大阪出身、しかも、流行りの音楽やファッションにくわしいだけでなく、元予備校講師で趣味がギャンブルなのだから、重宝されないわけがなかった。あの頃の経験がなければ、まともな受験屋や教育家どころか、キチッと大人にすらなれなかったと思っている。

ガンの時代を生きる

ヒトは食べたものを燃やして分解することでエネルギーを得る。そのとき、息をすることで取り込んでいた酸素はフリーラジカルに変化する。俗に言う活性酸素である。この活性酸素は、とても反応性の高い酸素分子で、体内で脂質と結合して、有害な過酸化脂質を作ってしまう。 細胞の老化である。また、活性酸素は、DNA(全長1.8m)にもダメージを与えてしまう。その場所がガン抑制遺伝子であったとき、ガン遺伝子によって細胞はガン化することになる。ガン遺伝子は、細胞に分化能(どのような組織にもなることが出来る能力)を与えるために必要な遺伝子である。つまり、ヒトは長く生きた分だけガンに罹りやすくなるということだ。不摂生がたたった訳でもなければ、カラダが弱いからなるものでもないのだ。いま、日本では、一年当たり100万人もの新たなガン患者が生まれている。しかし、医学の進歩や医療の発展は目覚ましい。わたしたちは、がんリスクへの社会保障制度の維持と経済的な備えについて、もっと考える必要があるのだ。

稀勢の里引退

「私の相撲人生において、一片の悔いもありません」頬をつたう涙は、土俵を去るさびしさか、それともケガさえなければという悔しい思いからか。「いろいろな人に支えられてきました。一人ではここまで出来ませんでした。あの声援の中で相撲をとることが出来て幸せでした。ありがとうございました」ケガをしてからは、潔さとは正反対の日々を過ごした彼だが、この稀勢の里としてのお別れの挨拶に、あっぱれ!と叫びたいと思う。

2018杏林大学医学部(生物)  Ⅲ 問10

2018杏林大学医学部 生物   Ⅲ 問10

父方または母方のいずれか一方の突然変異遺伝子を受け継ぐことにより表現型が変化することを優性突然変異という。これに対して、父方と母方の双方から同じ突然変異遺伝子を受け継いだ場合にのみ表現型が変化することを劣性突然変異という。

突然変異は、自然変異と誘発変異に大別される。このうち、誘発変異は、遺伝物質(遺伝子:ピリミジン塩基が二量体化)が放射線の照射を受けたときや、化学物質の作用を受けたときに起こる。

昆虫の翅(はね)にみられる脈を翅脈(しみゃく)という。気管や神経を通すための中空のすじで、キチン膜が厚く、補強にも役立つ。分布のしかたが種・属によって違うので分類上重要。

整理① 同じ染色体上に遺伝子A(a)・遺伝子B(b)・遺伝子F(f)の遺伝子座がある。

整理② 雌:相同染色体 ❨ A B F / 正 正 f ❩  雄:相同染色体 ❨ 正 正 f / 正 正 f ❩  ➡ 雌を検定個体と考えると、子の表現型の分離比から雌(検定個体)がつくる配偶子の遺伝子型とその割合を知ることができる。

解法❶ 遺伝子A(a)と遺伝子F(f)の間、遺伝子B(b)と遺伝子F(f)の間、遺伝子A(a)と遺伝子B(b)の間、それぞれの組換え価を求め、染色体地図を作成する。

解法❷ 遺伝子A(a)、遺伝子B(b)、遺伝子F(f)、3つの遺伝子について子の表現型の分離比が必要なため、表2の雌の数字をつかって組換え価を求める。

雌の全個体数は、10+390+377+7+183+34+30+169=1200

遺伝子A(a)と遺伝子F(f)の間の組換え価
[AF]:[Af]:[正F]:[正f]=多:7+34:10+30:多 
   {(7+34+10+30)÷1200}×100=7%

遺伝子B(b)と遺伝子F(f)の間の組換え価
[BF]:[Bf]:[正F]:[正f]=多:7+169:10+183:多 
{(7+169+10+183)÷1200}×100=31%

遺伝子A(a)と遺伝子B(b)の間の組換え価
[AB]:[Ab]:[aB]:[ab]=多:183+34:30+169:多 
{(183+34+30+169)÷1200}×100=35%

染色体地図   A(a)  F(f)  B(b)     
                                 
【解答】 セ : ②A-F-B   ソ-0 タ-7 チ-3 ツ-1

DNAの長さの求め方

DNAは二重らせん構造をしている。これは、シャルガフによる研究(シャルガフの規則)とウィルキンスとフランクリンによる研究(X線回折法)の結果を踏まえて、ワトソンとクリックによって提唱された。また、一巻きには10塩基対(b.p.)含まれていて、その長さは3.4nmである。

【問】500塩基対からなるDNA断片の長さを求めよ。

【答】500÷10=50巻き  3.4nm×50=170nm=0.17μm

ミトコンドリア解説

真核生物の細胞小器官であるミトコンドリアは、太古の好気性細菌が始原真核細胞に共生したことで、いまに存在する。これを提唱したのはリン=マーグリスで、共生説と呼ばれている。好気性細菌は原核生物だから、DNAからタンパク質を合成するときにスプライシングを行わない。したがって、DNAにはイントロン領域が存在しない。また、ゲノム(設計図)DNAは環状である。ちなみに、ミトコンドリア病が母からの遺伝なのは、卵に含まれていたミトコンドリアが原因だからだ。受精で卵が精子から受け取るのは、精核と精星状体のみであることを知っていれば理解できるだろう。

君たちはどう生きるか

闘争を避けて手に入るものは“夜の虹”でしかない。目の前にある関門を真っ向から乗り越えようとしないことを怠惰という。また、何らかの手段を用いて乗り越えることを不正という。怠惰は人として罪深い。また、人として手段は選ばなくてはならない。関門には真っ向から。


『石破氏はあの時、禅譲の誘惑に負けた』
                          三輪さち子(朝日新聞記者)

http://webronza.asahi.com/politics/articles/2018082200006.html?page=1

この記事が嫌いではない。示唆も含んでいる。ただ、報道各社も闘争を避けてはいないだろうか。怠惰や不正とは、まったく無縁だろうか。

友への鼓舞と激励

数年前に最終巻を迎えた『岳』という漫画をご存知だろうか。主人公である世界中の山々を踏破したアルピニスト島崎三歩がボランティアで行う山岳救助を描いた作品である。必ず彼は、無事に助け出され救助隊に詫びる者や、残念ながら死体となった者に、たった一言だけ声をかける。

「よく頑張った」

最終巻では、この一言の意味が示されている。危険をかえりみず、誰かのために突き進む彼が、「俺のためだよ。俺は俺のために登っているんだ」と救助された登山者に答える場面があるのだ。

自分のために流した涙は、青白く色づいているかのように冷たく感じるものだ。しかし、誰かのために流した涙は、不思議と温もりを感じたりする。また、心を洗い流したり、自らの存在を肯定してくれもする。

教育家である自分にとって教壇に立つということは、仕事であると同時に神様からのご褒美でもある。わたしにとって教壇の上は、自らの存在を肯定するための場所だからだ。

人は皆、自らを表現したり実現するための時間や場所を求めて生きている。

ガリ版刷りのなおさんはホームレスで、時々体調を崩しては仕事を休んでいた。彼はビッグイシューという雑誌の販売員だった。ある時、久しぶりに彼を見かけ1部買い求めたところ、小さく四つ折りにされたわら半紙を一緒に手渡された。電車の中で広げると自己紹介がガリ版印刷されていた。彼の夢は、どんなにちいさくてもいいからマイホームを手に入れることで、あだ名が、なおさんであることを知った。

その後、出講先が変わったこともあり、なおさんに逢っていない。もし、出逢うことがあれば、こう伝えるだろう。

「ありがとう、なおさん」と。


AERA dot. (朝日新聞出版のニュースサイト)
https://dot.asahi.com

『書かずに死ねるか』(朝日新聞 野上 祐 記者のコラムは、毎週土曜日午後4時に更新)
https://dot.asahi.com/dot/2017083000081.html

朝日新聞 野上 祐 記者
https://www.facebook.com/nogami.yu

むすんでひらいて

日本酒の味を表現する言葉に、“甘・辛・ぴん”というものがある。江戸時代からある言葉なのだが、わたしは、ぴんがしっかりしたものが好きだ。ぴんとは、尻ぴんの略で後味が力強いことをいう。お米の味がしっかりとしていると言い換えればピンとくるだろうか。じんわり甘くてピンがしっかり。そういうお酒は、いいことがあったときだけでなく、悪いことがあったときにも、飲む者をしみじみ受けとめてくれる。今日のコラムには、そういうところがあった。久しぶりに櫻正宗でもやりたくなった。灘のお酒がいいのは、ピンの中に“しゃん”が感じられるところにある。しゃんとは、秋晴れの味である。 https://dot.asahi.com/dot/2018062200085.html

人はなぜ握手をするのか

わたしは煙草をやめている。その理由はここでは述べないが、以前はかなりのスモーカーだった。しかし、一人でいるときにしか吸わないようにしていた。そのきっかけは、学生時代の恩師に言われたことにある。「三浦くん、煙草はこわいよ。そのときの感情や真意が覚られてしまうからね」ガンに冒された肺組織の標本をみながら一言だけ、ぽそっと。わたしは、仕事では感情や真意を覚られないように過ごすことが多い。だから、「三浦先生が、あれほど怒るのはめずらしい。あの先生は、世の中以外にキレない人だから。基本的にニコニコポン。笑顔で背中をたたいて行ってしまう」とか、「三浦先生が、へー、へー、ほーって話を聞いてるときは、何か困り事があるか、ちょっとしんどいとき」などとよく言われる。なぜそれほどまで感情や真意を覚られたくないのか。それは、教育の本質は整った空気によって薫陶を授けることだと考えているからだ。だから、高知の酒の席での遊びである箸拳みたいなことをしているのである。嘘、嘘、ほんま、嘘、嘘、ほんと。このコラムを読んで、意外と握手をしていないことに気づかされた。きっと、そういうことなのだろう。それでも、わたしはこのコラムの著者と握手を交わしたい。不躾で不遜な物言いをするわたしといつも言葉をたたかわせてくれる敬意と次のたたかいを約束する気持ちを込めて。ノーサイド後の選手が交わす握手のように。 https://dot.asahi.com/dot/2018063000013.html

目的合理性と価値合理性

目的合理性と価値合理性。目的合理性とは、ある目的について達成する手段が合理的であることをいう。一方、価値合理性とは、ある価値についてただただ追求することが人や組織のあり方として合理的(理性に従っている)であるということだ。ある価値がとても理想的なものであれば、現実的には1ミリもその価値に近づくことが出来ない。価値合理性の難しさだ。とても理想的なものである価値がすこしでも反映された目的にするために創意工夫し、その目的の達成に尽力する。ジレンマのなかを合理性をもって生きることで時代を動かしていく。それが、ほんとうの意味で理性に従っているということではないだろうか。 https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1569996216463085&id=100003581668091

認識するということ

この映像には驚いた。字が小さかったため、まず、質問を読まずに映像のみを確認した。もう一度見返した。やはり理解できなかった。気になったので質問とその答えを確認することにした。質問を理解する前に黒い影を確認。すぐに巻き戻して再生。踊っている。その後は何度見ても、その黒い影が気になってしまう。その黒い影が視野から消えないのだ。いや、視覚から消えないと言うべきだろう。わたしたちは、外部からの刺激を電流に変えて脳に送り、それを処理することで認識し、その情報を記憶として保存する。ここで大事なのは、認識には“心”という実在しない器官を使用するところにある。心で感じ、頭(=田)で考えることを思うという。思考をくり返し、思想をつくり出すには、心が必要なのだ。ぜひ、黒い影を確認してほしい。心を使ってその黒い影が何なのかを認識してほしい。そして、その黒い影から何かを感じ、考えてほしい。 https://www.facebook.com/100002370143732/posts/1802560706499583/

ゲバラの誕生日に

わたしはチェ=ゲバラに詳しいわけではない。昔は、COHIBAを愛して吸っていたが、それでもラム酒は、ネパール産と決めていた。ゲバラは大国による許せない横暴の一つとして、原爆の残虐性に関心を持っていたのではないだろうか。原爆病院を訪れたときに残した「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」という言葉にも見られるように。だから、ソ連が自分たちに無断で核兵器をキューバから引き上げたことに怒ったのだろう。ただのソ連とアメリカによる軍事的プレゼンスでしかなかったことに。自分たちが蔑ろにされてしまったと。一方、フィデル=カストロは、アメリカが広島と長崎に原爆を投下したことの正当性に疑問を持っていたようだ。彼は、「あの攻撃はまったく必要のないもので、モラル上も正当化できない」、「何百、何千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために」と言っている。また、広島に訪れた後、自国での議会で「日本国民は一言も恨みを発しなかった。それどころかそのようなことが2度と起こらないよう平和を願う記念碑を建てた」と演説している。この二人に共通しているのは、(原子爆弾)核兵器を完全に否定しているわけではないということだ。そして、怒りの矛先は(アメリカ)大国による許しがたい横暴に向いている。アメリカが自らの勝利を手にしておきながら、“人類による人類への壮大な実験”を行ったという認識は、たしかに正しい。しかしなぜだろう、何か彼らにも踏みにじられた気持ちがするのは、わたしだけなのだろうか。 https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1568004273328946&id=100003581668091

熱中症とジレンマへの欺瞞

炎天下に強行された校外学習によって熱中症となり、小学一年生の男子児童が亡くなった。これまでのようなマスコミの伝え方では、今回もまた、ただ痛ましい事故ということになってしまうだろう。運動会での組体操による事故を伝える記事などでも同じことが言えるが、誰かの不幸に鈍感になり過ぎてはいないだろうか。いま、教育の現場に必要なのは、行政による指導だ。そして、その指導内容は、常に選良の集合である政治によって監視されなくてはならない。“国会に統合幕僚長や陸海空の各幕僚長を出席させずして何がシビリアンコントロール(文民統制)だ!”と以前に述べたことがあるが、同じことである。わたしたちは、教育委員会や学校に、裁量を大きく与え過ぎてはいないだろうか。“命は他の何ものにも代えられない” という大原則を蔑ろにする学校やそれを黙認するマスコミには、子どもを教育したり、道徳や平和を語る資格などないとわたしは言いたい。あと、なぜ学校だと治外法権が許されるのだろうか。このような場合、業務上過失致死罪の容疑で警察や検察が動くのが当然なのではないか。

山崎ナオコーラは、作品『人のセックスを笑うな』(ちなみに内容は、年の離れた男女による純粋な恋愛模様である)のタイトルについて、以前、本屋の同性愛に関する棚の前で嘲笑する人たちを見たときに感じたことだと語っていた。このような相手を尊重する意思のない態度は、べき論(〜であるべき、〜するべき)というより、ただの侮蔑である。マスコミや知識人や文化人と呼ばれる人の中には、べき論は個人から自由を奪う怨嗟だと考える人が多い。わたしの考えは、これとは異なる。社会におけるモラルの崩壊やマナーの喪失からの個人のQOL(生活の質)の低下やSOL(生命の尊厳)の危機には、お互いに自らの“べき論”を提示し合い、共通認識とすべき何かをつくり出す必要があるのだ。わたしに言わせれば、“べき論”を戦わせることの放棄は、わたしたちを苛むジレンマに対する欺瞞である。

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学校の治外法権を認める意味

学校に軍人や官憲が踏み入った過去の反省が、学校の治外法権を認めることならば、つまり、“子どもはいつの時代においても大人が都合よく踏みにじってもよい存在なのだ”と学んだということだろう。この国から大人による虐待がなくならないのは当たり前である。

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スタートライン

この国はかつて、軍縮に失敗した。議会は汚職にまみれ、政争は尽きなかった。また、要人の暗殺が続き、普通選挙など夢のまた夢。ついに、政党政治も軍部の台頭によって終わりを迎えた。軍部は長いものに巻かれろの現場を軍国主義に染め上げ、新聞は威勢よく開戦論をぶった。ついに、アメリカを中心とする連合国によって包囲された日本は、国力の差を顧みずに戦争を始めた。政府要人たちは、多くの国民の命を失っても、さらに多くの国民の命が失われることを選んだ。自ら戦争を終わらせることが出来なかったのだ。国民の命を奪い続けるまでになった国家とその国民は、人類史上初の原子爆弾(核兵器)による実験に利用されることになった。わたしたちはいま、またスタートラインに立っている。それも、無自覚なままに。

生命の尊厳は、何びとたりとも、神や仏や国家ですら不可侵なものである。この考え方を絶対とすることが、唯一、各人の生存権(その人らしく存分に生きる権利)を守る道ではないかと思っている。この国は宗教国ではない。しかも、押しつけ憲法論まで存在する。そのため、多くの人の倫理が崩壊し、いま、社会は約束事を喪失した状態にある。まるで、野放図な個人主義の生きる権化によってつくり出された国みたいである。わたしは、世の中に明るい部分が少しでも残っているうちに、“べき論(〜であるべき、〜をすべき)”を戦わせて新しい共通認識をつくり出さなくてはならないと考えている。そして、そのときの議論は、生命の尊厳を重んじる(各人が過ごす毎日の質を上げる)という方向で進められなくてはならない。

次にポアされるのは誰か

麻原彰晃(松本智津夫 )らオウム真理教事件を起こした死刑囚たちへの死刑執行 。政権中枢による思惑はらんだ意思決定通りに執行を決めた法務大臣や、事前にリークすることでショー化するだけでなく、大雨災害を利用して死刑制度に疑問を挟ませなかった政府。さらに、執行によって死にゆく者たちをにぎにぎしく伝えるマスコミ。わたしに言わせれば、死刑を執行したのではない。彼らをポアしたのである。これからも、日本という国民国家 の終焉の始まりがくり返されることだろう。

松本サリン事件までは、 オウム真理教を嘲笑っていた。そしてしばらく後、 東京サリン事件が起きた。そのとき、爪弾きされた人間のこちら側への視線を痛いほど実感させられたことをいまも覚えている。この国の学校や会社などのあらゆる組織やムラには、いまもまだ爪弾きが横行している。平成の終わりに彼らを処刑したところで、ひと区切りがつくどころか、いまもまだポアという言葉をわたしたちはお互いに突きつけあったままなのだ。わたしたちは、生き残ったことに、あまりにも無自覚過ぎである。

荒んでいるのは誰か

この記者は、“出ていけ!”を被災者による荒んだ反応だと思っていないだろうか。被災者にカメラを向け、話を聞く意義を考えたことがあるのだろうか。行政に対応を促したり、行政が対策すべきだったことを指摘するために取材していると被災者は思っていないのだ。いや、わたしたちだって、国民の防災意識を高めるためという言い訳のような理由を振りかざしてノンフィクション作品をまた制作していると思っているのは確かだ。さらに残念なことがある。伝える側が薄っぺらいと作品が嘘臭くなるということだ。たとえ、それが真実であったとしても。

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誰のために

資本論を書いたマルクスは、“言葉”を理解していた。党首討論よりも予算委員会を重要視する野党には、もはや存在意義はない。まったく政治の本質を理解していないのだから。いったい誰のために首相に挑んでいるのだろうか。国民にすれば、この数年にわたって野党がしてきたことは次の選挙までの暇つぶしでしかない。この国の行政についての問題を何とかしたいのか、それとも、不正を声高に叫ぶことで謂れのある中傷をくり返したいだけなのか。自己満足で質疑をしたいのであれば、そこを去れ。それは、新聞やテレビの記者たちにも言える。なぜ、資料と向き合うのだ。データに基づいてしか物を見れないのであれば、そこを去れ。数字や文章による根拠よりも、誰かの語りに基づいて記事を書け。医療の現場ですらナラティブの意味を見直そうとしているというのに、なぜ取材をしない。ほんとうのことを知る者に語らせないのであれば、そこを去れ。以前、野球評論家の野村克也は、中日ドラゴンズや阪神タイガースでプレーした大豊泰昭について、“評価に値しない”と言い切ったことがある。“彼はバッターボックスに自分が理想とするキレイなスイングをしに行っている。相手ピッチャーの投げた球を打ち返す気持ちがまるでないから”というのが理由だった。

政治家と革命家

キューバの政治家だったカストロと南米の革命家だったゲバラ。政治家は地位を占めてこそ政治家で、果たすべきことを失えば、強権を発動したり貶める行為をくり返すことで政治家であり続けるしかない。一方で革命家は、戦闘に身をおいてこそ革命家。そのように考えると、ヒューマニズムに最もマイナーな二人だったから連帯が可能だったということか。革命家は散るからこそ美しく、政治家はただただ末期という宿痾を生きる存在だから醜悪。

人は皆、賽を振るために生まれた

世の中には“射幸心を煽るな”と声高に叫ぶ人が多い。しかし、“幸運を得たい”と考えるのは、それほどまで悪いことなのだろうか。人間は悩みや欲望が尽きない存在だ。しかし、悩みや欲望があるから、人生は面白いのではないだろうか。誰かの運がよければ、一方で運がわるい人が必ずいる。賭け事(レジャースポーツ)でなくても、商売や受験などでも不幸になる人は必ずいる。人生、運がいいとかわるいというのは確かにある。それでも、運を試さずに生きていくことが幸せだとは考えるべきではない。そんな人生には意味がないし、人間社会が成立しなくなってしまう。わたしは競馬で相当負けている。それでも競馬が好きだ。なぜなら、競馬は世の中の縮図そのものだからだ。競馬は人生に似ている。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180514-00010007-agora-soci

語りに基づいて新たな共同体像を描け

安全法制の議論が成立しなかったのは、自分にとって都合の悪いことやカッコ悪いことを正直に言わなかったことにあるだろう。

政府は、アメリカが日本を守る動機づけとしての集団的自衛権の行使容認の必要性を、国会審議を通じて丁寧に国民へ説明しなかった。一方、反対派は、これまでアメリカの軍事的プレゼンスや好戦的行為によって生み出された安定の恩恵に浴してきたことを認めた上で、わたしたちを戦争に巻き込み血を流させることになるからとハッキリ理由を言わなかった。結局、互いを無視し、一方的に主張するまま終わってしまった。

自らを不問にすることの問題は、共同体全体がそのテーマを理解できなくすることにある。いま、存立の危機に陥ろうとしているのは、わたしたちの生活でなければ日米関係でもなく、実は、わたしたちが属する国などの共同体ではないだろうか。

自らの立場を認識し、自らの責任を理解する。その当たり前のことが、いまの日本人は出来ていない。だから、心の欲するところに従い矩をこえ、個人として羽目をはずしてしまうのだ。そして、何らかの機会によってその醜態がさらされてしまう。

いま、日本は、新たな共同体像を描き出す必要に迫られている。個人の在り方にはじまり、夫婦、親子、家庭、地域コミュニティー、学校、会社、地方自治体、国にいたるまで。

いま、わたしたちが重んじるべきは“語り”である。問題を提起し、意見を提示せよということではない。タガが外れた共同体に属する個人として、自分が何を欲し、どのように矩をこえたのかを、都合の悪いことやカッコ悪いことを含むすべてを、正直に語ることである。

明日を疑っていないから花は咲き誇れる

本居宣長は、神とは尋常ではない霊威を発するものと言った。古くから日本人は、自然や観念を神として崇めた。神という字は、祭壇をあらわす示(礻)に稲妻をあらわす申で、神による不可知な力を意味している。

伊坂幸太郎の作品で、“未来は神様のレシピで決まる”という台詞がある。これは、“神頼みせよ!”という意味ではない。“最後は神様がお決めになるのだから、そのときまで、神様から与えられた機会だと信じて努力しなさい”という意味である。努力とは馬鹿に与えた夢であると言ったのは立川談志である。天才バカボンのパパのように言えば、美空ひばりの反対なのだ|:3ミ “勝つと思うな、思えば負けよ”ではなく、“負けると思うな、思えば負けよ”なのだ。また、“神様が見ている”とよく言われるが、これは天網恢恢疎にして漏らさずという意味ではない。このときの神様の視線は、良心の呵責である。

つまり、神様は、智慧に基づいた生き方を実践するために生み出されたものなのだ。

生命は単細胞生物に宿ったことで始まり、分裂することでつないで来た。つまり、生命の基本形は女性である。38億年の生命の歴史において、最初の30億年は女性だけだったと言える。わたしは信心深いため、女性の美しさを表現する大和言葉で言い表わせられるような生き方を大切にしている。“しなやかで、そして、たおやかに”  弾力に富んで強く、美しくも優しい人でありたい。これは、DNAが、海底の噴出孔から湧き出る熱水や大海原に落ちる雷に負けないためにもつ二重らせん構造にも通じる。

不可知な力による摩訶不思議なことを知るたびに生まれる逞しき妄想。この智慧にも似た誤謬を胸に、今日を存分に生きる。あなたも、わたしも、きっと明日からもこうやって生きていく。こうやって生きていきたい。

これがあなたの望んだことなのか

日本のサッカーは世界レベルだと言う。たしかに、世界のクラブチームで活躍するような選手を輩出するようになった。それでもW杯出場が悲願だった頃の日本代表チームのほうがずっと好きだ。遮二無二に泥くさく戦う姿勢に、こちらの気持ちも昂ぶらされたからだ。いまの日本人に必要なのは、生き方のテクネー(技術)であったり、魂の置きどころ知ることではないだろうか。与えられた命を存分に生きようとせず、言い訳で取り繕うことで自分を肯定し続ける人たちに言いたい。「これがあなたの望んだことなのか!」と。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180530-00000075-asahi-pol

『 半分、青い。(6月11日) 』

形而上にあった二人の関係を、「律はわたしのものだ」と鈴愛が言葉にして形而下に引き下ろしてしまったから、二人に彦星と織姫みたいに距離をとる必要ができた。恋みたいないつか終わる関係になってはいけないから。清の存在が、二人に大きな影を落としたのではなく、むしろ、楔を打ち込んだのだと。

生物科の窓から見える風景

血統を残す。DNAを残す。この二つは似ているようで異なる意味をもつ。

全てのサラブレッドは、サイアーライン(父系)を遡ったときに、ゴドルフィンアラビアンかバイアリータークかダーレーアラビアンのいずれかにたどり着く。これらは、三大始祖と呼ばれている。

競馬は、馬を改良するときに残すべきDNAを選定するために施行されている。ちなみに、皐月賞は速い馬、ダービーは運のいい馬、菊花賞は強い馬が、それぞれ勝つと言われている。

生物という不思議な存在がもつ生命。その生命をつなぐために生物は存在する。生命とはタンパク質の存在様式であり、それぞれの種は、それぞれ固有の存在様式を有する。自然において正常で特異的な構造を積極的に維持するための設計図がDNAであり、機能的・構造的個性を生み出す頁ごとを遺伝子という。

つまり、血統を残すということは種としてのDNAを残すことであり、DNAを残すということは各個体が遺伝子を残すということなのである。そして、品種改良で残すべき遺伝子を選定するために競馬はあるのだ。

地質学上のモノリスと建築物のモノリスがあるように、生命は、定義するよりも研究するほうが易しい存在なのである。

人は皆、ボーボワールのように「女に生まれるのではなく、女になるのだ」と考える。しかし、生物学的に見れば逆である。

太古の海で誕生した生命は単細胞生物であり、分裂することで生命をつないだ。つまり、生命の基本形は女性なのである。38億年の生命の歴史において、最初の30億年は女性だけだったのだ。

DNAをつくりかえることを進化というが、そのときに必要である遺伝子の運び屋として出現したのが男性である。

「生命という言葉は意味をもたない。そんなものは存在しない。生命とは何かという問いに対する決まった答えはない」とA.セント.ジェルジは言っているが、性同一性を奇異なるものとする観念や血統や民族を本質とする通念は、誤謬や幻想でしかないのだ。

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